本来の和の思想

和の思想とは、個人の自己主張の前提である。

和の思想とは、もちろん、聖徳太子の作として知られ、「和を以て尊しとなし」で始まる十七条憲法の思想のことである。ところが、十七条憲法のこの思想は、一般に信じられているように、個人が自己主張すること否定し、皆と同じ考え方や行動をすることを勧めるものでは決してない。そういう風潮が日本にあるのは確かだけれど、それは十七条憲法の和の思想とは根本的に異なっている。本論文で扱うのは、風潮としての和の精神ではなく、七世紀の日本に現れた国家憲法の基本思想としての和の思想である。

和の思想はその基本的構造が十七条憲法の第一条、第十条、第十七条にかなり明確に示されている。第一条にその本質が語られるけれど、特にそれは、「和を以て尊し」となすその目的は何かを説明した、第一条の最後の部分に示される。つまり、

上下のものが仲睦まじく、事を論じ合えば、理が通るようになり、そうすれば何事も出来ぬことはない。

とするところである。ここには、国家共同体を運営してゆくために必要と信じられる最も基本的な思想が語られている。つまり、和がまず確立すれば、論議が可能となる。論議がなされれば理が導き出される。理でものごとを進めれば国家共同体の運営がうまくできるはずである、という考え方である。言い換えれば、国家共同体の運営は理でなされなければならないけれど、その理は論議から生まれてくる。そして、そのような論議を可能とする場こそが「和」である、というのである。これが十七条憲法の和の思想の核心となるところである。

それでは、どのようにしてそのような和を確立することが出来るのであろうか。それは、何が和の敵であるかを明確にすることによって明らかになる。和の敵とは論議を不可能にするものなのである。ではいったい何が論議を不可能にするのであろうか。それは、自己の考え方を絶対化し、それを他に押しつけることができるとする独善主義である。このことに関して論じたのが第十条である。

心の怒りを断ち、おもての怒りを棄てて、他人が自分と違うことに対して怒りをもってはならない。人はそれぞれ心に想うところがあるのであり、他人が良いと思うことを自分は悪いと思ったり、自分が良いと思っても、他人はそれを悪いと思ったりするものである。自分だけが聖人で他人は愚人である、ということはない。人は皆な賢愚合わせ持つ凡夫にすぎない。

つまり、人はそれぞれの心を持ち、その心はそれぞれおもむくところにおもむく。それゆえ、人それぞれ価値観が違い、しかもすべてを知っている完全な人間などいない。人間は皆「賢愚合わせ持つ」不完全な凡夫にすぎないのであるから、国家共同体を運営してゆくにあたって、独善主義を捨てて、自分と違う意見を持つ者に対して寛容でなければならない、というのである。つまり、凡夫の自覚によって培われる、意見の相違に対する寛容が論議を可能にする場を作り出すのだ、という思想がここには語られている。人間のこころの自由性、価値観の多様性、知識の不完全性、これらが和の思想の基本的人間観であり、和の思想がよって立つ哲学的基盤である。

一体何故、そんなに論議が必要なのであろうか。それを語るのが最後の第十七条である。

もの事は独断で行ってはならない。かならず衆と論じ合うようにせよ。ささいなことはかならずしも皆にはからなくてもよいが、大事なことを決する場合には、あやまりがあってはならない。多くの人と相談し合えば、理にかなったことを知りうるのである。

これが、いわゆる十七条憲法の衆議の思想である。論議を行うのは、国家共同体の運営のために「あやまりがあってはならない」からである。これは第一条の「論ずれば事理が通じる」という部分と重なり合っているが、第一条では論議を可能とさせる和の確立の重要性が、ここでは具体的な衆議の実践の重要性が語られているわけである。また、第十条では人間の「愚」の側面を自覚させることによって独断主義を禁止したのであるが、ここでは、人間の「賢」の側面への慎重な信頼が現れているとも言えるであろう。不完全な、部分的知識でも、集まって批判・論議を交わすことによって、誤った考えが訂正され、部分的な知識がより完全になる、と考えるからであろう。このように、国家運営の重大な決定は必ず衆議によらねばならない、というのが和の思想の具体的な実践への結論である。それは国家政治における独善主義・独断主義・独裁主義の否定を意味する。

以上が、十七条憲法に書かれている和の思想の内容である。このようにして見てくると、和の思想が、人が異なった価値観や意見を持っていることに対する寛容の必要性と、彼らの論議への積極的参加と、その論議から導き出される理による国家共同体の統治 −− これら「和・論・理」の三段構造をその基本として持つ、きわめて合理的な政治思想であることがわかる。

和の思想と個人主義 国家政治の基本思想 佐倉哲

どんな人も勘違いや間違いをする凡夫だから、重大なことを間違えて皆に取り返しのつかない迷惑をかけないために、それぞれの賢い部分を持ち寄って議論をする。

自己主張をしなければ、その人の賢い部分が無駄になってしまい、共同体にとっての損失となります。

また、自己主張するためには、自分の賢い部分をみがいて、役に立つ意見にする必要があるでしょう。


私の意見としては、こういう和の実現には努力が必要ですが、参加する楽しさがあると思います。

言いたいことがあって、それが正しいことだと思うなら、どんどん発言するべきだということですね。


あと注意点として、何が正しいかは状況に応じて変わるので、その状況に応じた主張と議論をする心がけも大事ですね。

私としては、あんまり壮大なことは分かりませんが、素朴なことは、なんとなく分かるような気がします。


松浦彰夫 拝


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